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ウラジーミル・グレボヴィチ (プロンスク公) : ミニ英和和英辞書
ウラジーミル・グレボヴィチ (プロンスク公)[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

ウラジーミル・グレボヴィチ (プロンスク公) : ウィキペディア日本語版
ウラジーミル・グレボヴィチ (プロンスク公)[こう]
ウラジーミル・グレボヴィチ(、? - 1196以降)はリャザン公グレプとエヴフロシニヤ(ロスチスラフ(ru)の娘)との間の子である。プロンスク公:1180年 - 1186年。
== 生涯 ==
兄のロマン(ru)イーゴリと共にリャザン公国を領有した。その際にはロマンがリャザン公位にあった。
1180年、兄弟のフセヴォロド(ru)と共に、キエフ大公フセヴォロド3世からの援助の確約を得ると、ロマン、イーゴリに対する争いに参与した。なお、フセヴォロド3世とは、1183年ヴォルガ・ブルガールへの遠征を行っている。しかし1186年には再びロマン、イーゴリと共にリャザン公国を統治するようになり、プロンスク公となっていた兄弟のフセヴォロド、スヴャトスラフ(ru)の治めるプロンスクを包囲した。キエフ大公フセヴォロド3世は和平を促す公使を派遣したが、ウラジーミルらは耳を貸さず、最終的にはキエフ大公軍の前衛部隊との戦闘となった。加えてキエフ大公軍の本隊接近の報に接し、ウラジーミルら兄弟はプロンスクから脱出した。ただし、キエフ大公の援軍が撤退するや否や、敵対していた兄弟のスヴャトスラフを自陣営側に引き込むことでプロンスクを取り戻している。なお、この後にキエフ大公フセヴォロド3世への和平交渉の使者を送ったが拒絶されている。キエフ大公との和平が成立するのは1187年のことであり、ウラジーミルらはチェルニゴフ主教ポルフィリーを使者として派遣し、和平を勝ち取った。
1195年ウラジーミルで行われたフセヴォロド3世の息子のコンスタンチンの結婚式に出席した。1196年にはフセヴォロド3世と共に、チェルニゴフ公国への遠征に参加した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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